学長法話:365体育投注_365体育备用网址-【唯一授权牌照】@七年度達磨忌
2025年10月22日に行われた、365体育投注_365体育备用网址-【唯一授权牌照】@七年度達磨忌法要の際の学長法話です。
皆様こんばんは。本日は達磨忌のご修行でございました。ご準備とご参加に心より感謝申し上げます。
さて、冒頭新井先生からご紹介がありましたとおり、「七転び八起き」で知られ親しまれております達磨様の命日忌でございます。五世紀から六世紀にかけて活躍された達磨大師様は、インドのお釈迦様から数えて二十八代目ということになりますので、西天二十八祖と申します。
また、今日は立派に維那をお勤めいただいた北条君、ご苦労様でした。疏の中でもお読みいただきましたが、「円覚大師」とお呼び申し上げることもございます。世に円覚寺というお寺がありますが、あの「円覚」です。いずれにしましても、私ども曹洞宗門下は、この達磨大師に始まる禅の流れを汲む宗派です。達磨様があって初めて私たちがこうして坐禅の教えに出会うことができたわけです。
達磨大師には、様々な逸話や伝説が知られておりますけれども、歴史的に申し上げると五世紀から六世紀頃の当時の時代背景も知っておくべきかもしれません。当時の中国は北方は北魏という国が治め、南方は梁という国が治めており、特に北魏というところでは激しい廃仏毀釈の仏教弾圧が繰り返されていた、そんな背景がありました。しかし、その時の仏教を弾圧していた皇帝が没せられると、仏教が復興してくるという、そんな背景の中で、達磨様がおいでになられたのでございました。 まずは歴史的に申しますと『楞伽経』という経典を大事に教えとして二祖慧可に受け継がせたというところが知られます。この『楞伽経』は、唯識であるとか、如来蔵であるとかといった、古くからのインドの教えが書かれ、禅の教えの根本とする内容となっております。今日はその内容は触れませんけれども、しかし達磨大師は教えの中で「二入四行」ということを伝えられたのでありました。二入というのは「理入」と「行入」という、悟りに至るための「理」から、「道理」「真理」から入るという「理入」と、そして実践から入るという「行入」であります。私どもの「行学一如」という建学の精神は、おそらくそこにも重ね合わせる意味があって、教えとして始まっているんだろうと思われます。「理入」、道理を学び、教えから学んで入る。そしてもうひとつは実践から入る。このとりわけ実践の方では「報冤行」、「随縁行」、「称法行」、「無所求行」というような教えがありまして、そこには私どもが学ぶべき実践が多く書かれておるわけであります。 その冒頭に「報冤行」とあるわけですが、達磨大師の教えに従えば、私たちの実践の中でも、とりわけ報冤行が大事だということなんですね。これは他の場合でもそうですが、羅列してある順序立ててある教えの場合、最初にトップに来る方が大事です。したがって、「報冤行」が、最初にある行ということですね。言葉だけ聞きますと「ほうおん」ですから「恩に報いる」というふうにお考えかもしれませんが、人生にとって一番難しく、そして大事な行というのは、「恨みに報いる」っていうことなんです。「報い」というのは、「繰り返し」とか「実践の継続」という意味です。「おん」の方は「恨」と書く場合も多いのでありますが、ワかんむりを書きまして、下に兎という字の冤を書きます。ウサギというのは、人間にとって本能的な、根本にある欲望と言ってもいいかもしれません。つまり、野に放された獣の代表として「兎」という字が使われていると思ってもいいと思います。それをワかんむり、つまり籠や器で伏せる、つまり我々の持ち合わせている欲求的なもの、「こうしたい、ああしたい、ああ苦しい、ああどうしよう」と、われわれはこういう悩みや苦しみを抱えながら生きているわけですが、それをあたかも器で、入れ物で、あるいは何かかぶせるもので、押さえる。こういう行が「報冤」です。
現代は「忍耐」とか「我慢」とか「辛抱」とかという言葉がだんだん廃れてきた時代ですけれども、しかし、禅の教えでは、「人間には辛抱するところが大事だ」ということが、教えられているのであります。そしてある意味で、それは「苦しみや恨みに対して、どう人間が乗り越えていくのか」という根本課題でもありますね。
思えば、世界に目を転じてみましょう。戦争、テロ、さまざまな争い、こういったものが絶えない時代とも言えます。その一方で私たち日本人にとって昔から比べると便利で快適で豊かな時代になったかも知れません。しかしこういう現代人にとっての落とし穴というのはどうしても便利で豊かで快適で安全で安心な — これは人間が求めてきた世の中の理想ではありますけれども — 同時に、「我慢する」とか「進歩する」とか「耐える」ということを置き去りにしがちになっているのではないでしょうか。達磨大師はおっしゃるのです。人間、さまざまな悩みや苦しみが誰しもある。それらを正面から向き合って、そしてそれを乗り越えるために、どうか、強い心を持ってもらいたいということなのだと思います。
最近、印象的な報冤行のひとつの例として申し上げれば、大谷翔平さんのコメントが私には思い出されたのであります。ポストシーズンに進み、そしてご案内のように、ワールドシリーズに進むことが決まりました。ポストシーズンに入ってから、大谷翔平さん、最後にあの奇跡的な十奪三振にそしてさらに三本塁打、とても同じ人物が行ったとは思えない、奇跡がありましたね。でも、あの試合の前まで、皆さんご存知だと思います。実際、彼は本当に打撃に苦しんでいた。打撃も一割台。印象的だったのが、あの奇跡的な試合の前、ロバーツ監督という方が。彼に苦言を呈していたんですね。「もしこのワールドシリーズに進んでも、彼の打撃が復活しなければ、多分優勝はできないだろう」と、こう言われた。あのスーパースターに対する珍しい批判と言いますか、苦言だったわけですね。けれども、その苦言に対して、大谷翔平さんがこう答えたんです。「打てなければ勝てないということは、僕が打てば勝てるんですね。わかりました!」こう仰ったんです。私は、この発想の切り替え、素晴らしい報冤行の知恵だなと、私はその時思ったのであります。しかし、彼のそこが天賦の才能も含めて大変なご努力があったと思います。あの奇跡の、歴史に残る「すべてのスポーツにおける最高のパフォーマンスだった」という評価の試合もありましたが、敬服に値するあの大活躍が生まれました。
皆さんどうでしょう。皆さんにとってもうまくいかないこと、辛いことがおそらくは生活の中で随所にあることでしょう。でも、ここはひとつ、大谷翔平さんのように、仮にうまくいかなくてもいいと思うんです。「報冤行」というのは、「報」というのは、先ほど言ったように「繰り返し」という意味があります。一度だめでも次に、次が駄目でも、まだ次があるんです。学生の皆さん、どうぞどこまでも粘り強く、そして納得がいくまで頑張っていきましょう。それが私たちに時代を超えて教えてくれた達磨さんの知恵かと思います。
今日は遅くまで本当にご苦労様でありました。これからも精進してまいりましょう。以上です。
さて、冒頭新井先生からご紹介がありましたとおり、「七転び八起き」で知られ親しまれております達磨様の命日忌でございます。五世紀から六世紀にかけて活躍された達磨大師様は、インドのお釈迦様から数えて二十八代目ということになりますので、西天二十八祖と申します。
また、今日は立派に維那をお勤めいただいた北条君、ご苦労様でした。疏の中でもお読みいただきましたが、「円覚大師」とお呼び申し上げることもございます。世に円覚寺というお寺がありますが、あの「円覚」です。いずれにしましても、私ども曹洞宗門下は、この達磨大師に始まる禅の流れを汲む宗派です。達磨様があって初めて私たちがこうして坐禅の教えに出会うことができたわけです。
達磨大師には、様々な逸話や伝説が知られておりますけれども、歴史的に申し上げると五世紀から六世紀頃の当時の時代背景も知っておくべきかもしれません。当時の中国は北方は北魏という国が治め、南方は梁という国が治めており、特に北魏というところでは激しい廃仏毀釈の仏教弾圧が繰り返されていた、そんな背景がありました。しかし、その時の仏教を弾圧していた皇帝が没せられると、仏教が復興してくるという、そんな背景の中で、達磨様がおいでになられたのでございました。 まずは歴史的に申しますと『楞伽経』という経典を大事に教えとして二祖慧可に受け継がせたというところが知られます。この『楞伽経』は、唯識であるとか、如来蔵であるとかといった、古くからのインドの教えが書かれ、禅の教えの根本とする内容となっております。今日はその内容は触れませんけれども、しかし達磨大師は教えの中で「二入四行」ということを伝えられたのでありました。二入というのは「理入」と「行入」という、悟りに至るための「理」から、「道理」「真理」から入るという「理入」と、そして実践から入るという「行入」であります。私どもの「行学一如」という建学の精神は、おそらくそこにも重ね合わせる意味があって、教えとして始まっているんだろうと思われます。「理入」、道理を学び、教えから学んで入る。そしてもうひとつは実践から入る。このとりわけ実践の方では「報冤行」、「随縁行」、「称法行」、「無所求行」というような教えがありまして、そこには私どもが学ぶべき実践が多く書かれておるわけであります。 その冒頭に「報冤行」とあるわけですが、達磨大師の教えに従えば、私たちの実践の中でも、とりわけ報冤行が大事だということなんですね。これは他の場合でもそうですが、羅列してある順序立ててある教えの場合、最初にトップに来る方が大事です。したがって、「報冤行」が、最初にある行ということですね。言葉だけ聞きますと「ほうおん」ですから「恩に報いる」というふうにお考えかもしれませんが、人生にとって一番難しく、そして大事な行というのは、「恨みに報いる」っていうことなんです。「報い」というのは、「繰り返し」とか「実践の継続」という意味です。「おん」の方は「恨」と書く場合も多いのでありますが、ワかんむりを書きまして、下に兎という字の冤を書きます。ウサギというのは、人間にとって本能的な、根本にある欲望と言ってもいいかもしれません。つまり、野に放された獣の代表として「兎」という字が使われていると思ってもいいと思います。それをワかんむり、つまり籠や器で伏せる、つまり我々の持ち合わせている欲求的なもの、「こうしたい、ああしたい、ああ苦しい、ああどうしよう」と、われわれはこういう悩みや苦しみを抱えながら生きているわけですが、それをあたかも器で、入れ物で、あるいは何かかぶせるもので、押さえる。こういう行が「報冤」です。
現代は「忍耐」とか「我慢」とか「辛抱」とかという言葉がだんだん廃れてきた時代ですけれども、しかし、禅の教えでは、「人間には辛抱するところが大事だ」ということが、教えられているのであります。そしてある意味で、それは「苦しみや恨みに対して、どう人間が乗り越えていくのか」という根本課題でもありますね。
思えば、世界に目を転じてみましょう。戦争、テロ、さまざまな争い、こういったものが絶えない時代とも言えます。その一方で私たち日本人にとって昔から比べると便利で快適で豊かな時代になったかも知れません。しかしこういう現代人にとっての落とし穴というのはどうしても便利で豊かで快適で安全で安心な — これは人間が求めてきた世の中の理想ではありますけれども — 同時に、「我慢する」とか「進歩する」とか「耐える」ということを置き去りにしがちになっているのではないでしょうか。達磨大師はおっしゃるのです。人間、さまざまな悩みや苦しみが誰しもある。それらを正面から向き合って、そしてそれを乗り越えるために、どうか、強い心を持ってもらいたいということなのだと思います。
最近、印象的な報冤行のひとつの例として申し上げれば、大谷翔平さんのコメントが私には思い出されたのであります。ポストシーズンに進み、そしてご案内のように、ワールドシリーズに進むことが決まりました。ポストシーズンに入ってから、大谷翔平さん、最後にあの奇跡的な十奪三振にそしてさらに三本塁打、とても同じ人物が行ったとは思えない、奇跡がありましたね。でも、あの試合の前まで、皆さんご存知だと思います。実際、彼は本当に打撃に苦しんでいた。打撃も一割台。印象的だったのが、あの奇跡的な試合の前、ロバーツ監督という方が。彼に苦言を呈していたんですね。「もしこのワールドシリーズに進んでも、彼の打撃が復活しなければ、多分優勝はできないだろう」と、こう言われた。あのスーパースターに対する珍しい批判と言いますか、苦言だったわけですね。けれども、その苦言に対して、大谷翔平さんがこう答えたんです。「打てなければ勝てないということは、僕が打てば勝てるんですね。わかりました!」こう仰ったんです。私は、この発想の切り替え、素晴らしい報冤行の知恵だなと、私はその時思ったのであります。しかし、彼のそこが天賦の才能も含めて大変なご努力があったと思います。あの奇跡の、歴史に残る「すべてのスポーツにおける最高のパフォーマンスだった」という評価の試合もありましたが、敬服に値するあの大活躍が生まれました。
皆さんどうでしょう。皆さんにとってもうまくいかないこと、辛いことがおそらくは生活の中で随所にあることでしょう。でも、ここはひとつ、大谷翔平さんのように、仮にうまくいかなくてもいいと思うんです。「報冤行」というのは、「報」というのは、先ほど言ったように「繰り返し」という意味があります。一度だめでも次に、次が駄目でも、まだ次があるんです。学生の皆さん、どうぞどこまでも粘り強く、そして納得がいくまで頑張っていきましょう。それが私たちに時代を超えて教えてくれた達磨さんの知恵かと思います。
今日は遅くまで本当にご苦労様でありました。これからも精進してまいりましょう。以上です。
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